昭和五十七年五月二十四日 朝の御理解
神 訓
一、縁談に相性を改め見合うより信の心を見合えよ
ま、相性と云うものが、あるかないかは私には分かりませんけれども、水の性とか火の性とか、男の人は土の性とか、と云ったように申します。
相性が良いから、例えば縁談に相性を見合うより、とあるですから縁談の事でもですね、相性が良いからと云うて必ずしも、その夫婦が幸せになる、とは限らない。
反対に、火の性、水の性、と云えば反対の事で、火が燃えかかっておると水をかけるからシュウンと消えてしまう、と云う訳なんですよね。
そこに信の信心、お道の信心で云うならお取次を頂いて、それがなされる時に鍋やら釜やらの用と云う事になれば、水であるならばお湯と云う事にもなりましょうし、お米であるならママにもなる、と云う事になりますよね。
だから相性を見合うより心と心を見合えよ、と。
お互いがこの人とならば一苦労しても良い。と云うような相性は合うてはいなくっても、そういう心があればおかげになる、と思うんですよね。
相性が良いから、悪いから、等と、本当は相性が合わない方がね。あんまりぴったりと合いすぎてからおかげにならん、いわゆる仲が良すぎておかげにならん。
これは、私が長年の体験から申しますと、結婚とか縁談と云う事ぢゃなくてもやっぱり相性が良いのでしょうね、仲良くなれる、と云うのはね。
まあ、性が合わん、性分が合わん人と、お付合いをするでもやっぱり心がぴたっと合ってお付き合いしやすい人と、どうしてもお付き合いしにくい、見るとも好かん、と云うような人もやっぱり中にはありますよね。
例えば、こうやってお教会で人がたくさん助かっていく中には、私も人間ですから人間的に好ましい人もありゃ、嫌な感じの人もありますよね。
だから嫌な感じの人に、嫌な感じでお取次しとったら助かりもせんし、おそらくは参っても来んでしょうね。
ところが、皆さんにいつも申します事ですけれども、いやだなと思うね。
私は此処にお参りをしてくる関係教会の先生方に必ず云うんです、あっ、この信者はよか信者になるだろう、とチヤホヤしてると必ず信心を落としてしまうですね。
こういう性分が好かん、兎に角性が合わん。そういう時ほど、神心となって本気で接していくと、その人がおかげを持ってくる。
その人がお導きをしてくれる。その人が教会発展の為の働きをしてくれるね。
例えて申しますと、商売でも従業員が自分の気に入ったやつばかりと云ったような事ぢゃなくて、自分には気に入らん自分の性には合わんなら、わざわざ集める事はいらんね。
それが自然に集まって来たものであるならば、それを大切にする、と云う事が信心なんです。
私は、その事を例えばね、宝さがし、と云ったようなもの、本当に良い宝が隠してあるなら、そんな普通平穏な所には置いちゃない。こげなとこは人が見らんだろう、捜さないだろう、と云うような所に宝の札が置いてあるようにね。
だから此処は一つお互いが、信心によって神心を作っていかんと、もうそこに宝の札があっても触れる事も出来ないで終わってしまわなければならない。
いわゆる心と心を見合えよ、と云う事はね、結局、神心をもってせよ、信心の心をもってせよ、と云う事であると思う。
火と水の性だから合わない、と思っておったのがかえって、火と水の性でなからなければ出来ないようなお湯もほしいね。
ママにもなりたい、と云う為には火と水がなからなければ出けん、それを中に入った信心がいよいよおかげにしていくように、あんな奴はもう付き合いたくない、と思うような人が、やはり付き合わねばならないような自然の働きを頂いたら、それこそ神様だと思うてね。
それを大事にしていくようなおかげを頂きますと、確かにその人が神様だった。あの人がおかげを持って来て下さった。と云うような事になるです。
これは、私の三十年からの体験からも云える事ですね。
あれはいつの時代だったでしょうかねえ、光明皇后と云う皇后様がおられるが、千人風呂を作って世の中の難儀な病人達を集めて介抱してあげられた、大変親切深いお方であった。と云う事ですね。 或る時、もうそれこそ身体から汁が出て、臭いがするような哀れな人が助けを求めてやって来た時に、誰でもそれは断ったが良い、と思うようなものであったけれども、皇后様、そういうのを自分の口をもって、その膿を吸い出してやられて、その千人風呂に入れて助けられた、と云う話がありますね。
何とそれが観音様の化身であったと云うね。
もしこんな汚い人と云うて向こうに押しやっとったら、その観音様との出合いもなかっただろう、と云うように確かにそういう理はあるようです。
いやだな、もうこんな奴、と思うのをね、大切に。兎に角、人に嫌われる、と云ったような人達は誰からでも嫌われるのですからね。 だから、人から嫌われるような人を大切にしてあげる、と云うような心が、私は神心だと思うですね。
自分とあの人は性が合うとか合わんとか、ではなくてね。
むしろ性が合うのは放っておいても合いますからね。
合わんと思うものを自分の信心で合わせていくような行き方を身につけてまいりますと、そこにおかげが隠されてある、そこに宝の札が隠してあるね。
いやだな、性が合わない、と云うようなね、そういう場に至ったらです。
わざわざ性に合わんとばっかり集める、と云う意味ぢゃないですよね。
そういう縁がそこに生まれて来たならば、その縁を大切にしていく、と云う事ね。
そこから、相縁、機縁と云うようなね。
そこから、かえって不思議な縁が生まれて、繁昌のもとにもなる、と云うような事がございます。
今日のこれは、結婚に皆が相性と云う事を云う。その事を教祖は指摘されての、お教えだと思いますけれどもね。
結婚だけの事ではありません、私共、日常生活していく上にね、その人とお付き合いしなければならなくなったならば、人が嫌うような、いやだなと思うような人を神心となって大切にお付き合いしていく、と云うような行き方をすると、その人がおかげをもって来てくれる。
これは、私の三十年間の体験から云えれる事ですね。
どうぞ、相縁だけにとどまった世界、狭い世界に住むよりも、一切のものと調和出来る、一切のものと拝み合えれる心こそ神心であり、又、豊かな大きな心である、と云うふうに思います。
私共の周辺に、そういうのがありはせんだろうか、もうこの人ばかりは、ふるふる好かん、ち、云うとが、そのふるふる好かんごたっとを好きになる工夫をして御覧なさい、その人がおかげを持って来てくれます。
そして、その人が観音様だったな、神様だったな、と思うようなおかげにまでなってくるんです。
「どうぞ」